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戯曲を読む会in京都、第三回レポート「天使達の叛逆」(エンゾ・コルマン)

戯曲を読む会in京都、第三回レポート



対象戯曲:『天使達の叛逆』(作:エンゾ・コルマン、訳:北垣潔)

実施日:2022年2月19日(土)、左京東部いきいき市民活動センター

文:横田宇雄


フランス現代戯曲を読む会in京都も、第三回目となりました。この会では「コレクション 現代フランス語圏演劇」から毎回、扱う戯曲を選定しています。

今回は、まだ日本ではなじみの薄いであろうエンゾ・コルマンを扱いました。


作品紹介は、あとがきもしくは、実際に戯曲を読んでいただくこととして、声に出して戯曲を読むという経験を通じて得られた点をご紹介したいと思います。


北垣氏のあとがきに紹介されている、コルマンの「言葉をトランペットのように奏でる」という演技論が、どういったものなのか、どのように可能なのか、ということを掘り下げていった。本戯曲は、13章からなり、それぞれの章が明確な対象(作家、事件、文学論)を持ち、それぞれにテーマを反響させている。物語といった物語はないのだが、「天使達」が生きる人間への不満や期待、自分たちが生きていた頃の回想(とはいえ、登場人物は各分野で著名な芸術家なのだが)を語るというものである。


文章は、極めて論理的かつ意味している内容も、哲学・文学論のそれである(ドラマ的要素はほとんどない)。まるでプラトンの対話編のような印象を与えるが、声に出して読んでみると、なるほど「トランペットのような」即興演奏的軽やかさもしくはグルーブ感というものが、腑に落ちてくる。まるで、仕事に疲れ、社会に疲弊し、孤独を感じている時に、ニューヨークの片隅のジャズバーに、トランペットを演奏を聴きに行き、世の中の不条理と矛盾に思いをはせる。そんな戯曲だった。


「書かれた言葉」は、意味を伝えることはできるが、それが声に出されるまでは、リズムや旋律、調子を持たない。「トランペットのように奏でる」ためには、言葉に息を吹き込まなければならない。極めて明瞭に、かつ論理的に書かれたこの言葉が、息を吹き込まれてから書かれたのか、書かれてから息を吹き込まれるべきなのか、この戯曲にとっては重要な問題であるように思われる。当然のように、「即興演奏」とは、無秩序から生まれるものではなく、リズムやコード進行、役割が与えられていてこそ、発揮される現前性である。もっと言えば、予定調和というレッテルを演技/演奏に貼られないための、卓越したチューニングの元に成り立っている。


即興の技術的問題が、チューニングに寄っているのだとしたら、「即興らしさ」とは、その演技/演奏が即興か否かというよりも、いかにグルーブ感を作り出し、また崩すかという、リズムの保持と中断というリズム論に還元されるのではないだろうか。


こうした観点から言うと、コロナ禍以降、「上演」が中断され、「記録と配信」という編集技術に焦点がこれまでにないほどに集中した、この3年の間に舞台芸術界に起きた変化と、エンゾ・コルマンのテキストは新たな結びつきを得たように思われる。例えば、ジャズバーに演奏を聴きに行くことと、ユーチューブでラウンジミュージックを聞くことの間に、大きな経験的な隔たりがあるように、「リズムの中断」は、もはや演奏家によってなされるのではなく、聴衆が自らの都合で行うことができるようになった。


例えば私たちは映画『ドライブ・マイ・カー』(2021、原作:村上春樹、監督:濱口竜介)※1から、原作と映画の違い、映画と演劇の違いについて、いかに物語のリズムが中断されるかについて思いを巡らせることができた。例えば、私たちは舞台『さよならあかるい尾骶骨』(2019、2022再演、作:小高知子、演出:増田美佳)※2から、ドラマへの回帰あるいはポストドラマ演劇を志向する劇場体験について、作品評を深めることができた。もしくは、近代のアンチドラマ主義者が語らないプラトンの演劇性について、私たちは再度注釈を加える必要があるかもしれない。


演劇を考えるということ、ひいては演劇の上演に取り組むということは、「自由」を巡って人間存在を問うことにほかならない。

そう、つい口走りたくなるような、この種の問題にこの戯曲は導いてくれた。


※1・・・渡辺健一郎がトーク「自由を教えるということ」(2022年2月13日)の中で、この作品に言及。

※2・・・前田愛美が出演。


2022年2月20日、京都にて。